07.07.2012昨日の続きです。パルコのこと。
昨日、さびしい、さびしい、さびしいなどと書いてしまったが、
またしてもさまざまなことを思い出す。
パルコを作った増田通二氏がリタイアなさったあと、90年代の初めだったか、独立していた私のところに何度かお電話をいただいた。「本をね、作りたいんですよ」。『踊る島バリ』をパルコから出していただいていた。その構成をイメージなさっていたのではないかと思う。いや街づくりの話をおまとめになりたかったのか。
私は私なりに、「パルコ回顧録」と「PARCO POWER」という2種類の企画を考え、ポスターやCMなど宣伝広告物も掲載したいしと、久々にパルコを訪ねた。その時、元同僚から「全くダメ。増田さんの仕事に関わることは、今のパルコではタブーなんだよ」(つまり一切協力できない)と言われてしまう。結局、本の企画はそれきりになってしまったのが今も残念でならない。
増田氏はそのしばらく後、『開幕ベルは鳴った』(東京新聞出版局 2005年)という自伝的な本をお出しになった。ここに常務であり宣伝担当だった石川福夫氏が、生涯の師となる増田氏との出会いや仕事のことを書かれている。
パルコのポスターなど宣伝物をまとめた本『PARCO AD WORK』が1979年末に出ているが、それまでの商業美術史になかった本だと。そう言えば西武劇場(現PARCO劇場)も、演劇だけでなく音楽もダンスも映画も落語までやる劇場なんてそれまでなかった。
パルコの全てが革新的で、ひんしゅくを買う場合もあったものの、その斬新なメッセージが若者たちを公園通りに向かわせたのだ。2007年に増田氏が亡くなったときも、パルコの本を作れないかなあと思ったけれどそれどころではない生活に陥ってしまった。それでも懲りず、石川局長がご存命だからと、ふつふつ思ってはいたのだけれど、亡くなってしまわれた……
なぜパルコがあれほど若者たちを魅きつけたのか。私が出張に行かせてもらったニューヨークでもパルコのことは知られていて、ジャパンハウスで展覧会の打診があった(実現しなかったが)。まだ1977年のことだ。
現場を生きた人間がいなくなると、その正確な歴史も失われる。評論は評論であって、生きた事実ではないから。
あの時代を作った人々が亡くなり、当時の記憶が失われる。
それが、たとえようもなくさびしい。
(東海晴美)
パルコについて。草森紳一さんのパルコ論「幻想の食事」にもふれています。
(ブログ「その先は永代橋」より)
・2011年4月21日 エッ、パルコがイオンに?!
・2011年4月22日 エッ、パルコがイオンに?!(続き)
・2012年1月27日 石岡瑛子氏の訃報に